体が怠くて不登校になった経験談

病気や病院について

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シェーグレン症候群と線維筋痛症だと判明したのは、30代に入ってからでした。

しかし、前兆は3歳の時から始まっていました。

母に聞いた話では、産まれた病院でも「なんかこの子おかしいね。検査してみようか」という話があったとか・・・・・・。

その頃、産まれたばかりの妹に先天性心疾患があり、永くないと宣告されたばかりだったので、私の検査をするどころではなく、検査はしませんでした。

何が言いたいのかというと、子供の頃から病気の症状があったということです。

目に見えないし言葉にできない症状

シェーグレン症候群と線維筋痛症の症状は目に見えません。

私の場合、6歳で難聴になりましたが補聴器を付けていなかったので、難聴すら理解されませんでした。

例えば、視力が低下している場合1メートル先の看板が読めるか、読めないかで相手の視力を想像することができます。

しかし、相手が聞こえている音を「聞こえない」と言っても、「なんで聞こえないの?」と言われてしまうのです。

視覚で得た情報は比較的、理解してもらえます。

ところが、言葉で伝えたことは理解してもらえないのです。

理由はわかりませんが、人間は経験したことしか理解できないということが影響しているのでしょう。

このように、「体がだるい」「なんとなく調子が悪くて頭が痛い」「めまいがする」「吐き気がする」といった症状は、理解されません。

そもそも、小学生が「体がだるい」と言って、信じてもらえるでしょうか?

「怠けてる」としか思われません。

しかし、本当に体がだるくて学校に行くことが辛かった。

元気な日よりも、なんとなく調子が悪い日の圧倒的に多い。(今でもそうです)

「なんとなく調子が悪い」と言うと「どこが調子悪いの?」と聞かれますが、40歳を過ぎた今でも、言葉にできません。

それを、小学生の低学年が表現するのは無理です。

理解されない難聴と体調を抱えながら成長し、高学年になると担任の先生が輪を掛けて無理解だったことから、私は不登校児になりました。

どうすればいいのか誰もわからない

小学校高学年になった頃、専業主婦だった母がパートに出始めたうえ、担任が新米で病気の子供に理解や配慮がまったくできない先生だったため、学校に行くのが本当に苦痛になりました。

一度は家を出るものの行くのが嫌で戻って来るの繰り返し。結果、そのまま休む。

このルーティンをした結果、1年で100日近く欠席。

立派な不登校です。

学校に友達がいないわけでもなく、勉強は好きではないけれど嫌いでもない。

担任との相性は悪かったですが「顔を見るのも嫌」というほどでもありません。

ただ、本当のことを言っているのに、担任や一部のクラスメイトに信じてもらえないことがストレスでした。

足の指に「しもやけ」ができて靴を履くのも苦痛だったのに、「しもやけ?なるわけない。見せてみろ」と、皆の前で靴下を脱いで見せないといけない。

席替えで「右耳が聞こえないから配慮を」と親からも言っていたのにやらない。(というか、できなかった)

このようなストレスで、ただでさえ重だるい体が、だるくなって吐き気やめまいを起こしていました。

ただし、傍から見れば「怠け病」にしか映らないのが現実です。

自分は嘘を付いていないのに「嘘つき」と思われる。怠けていないのに「怠けている」と言われる。

でも、どうすればいいのか私にはわかりませんでした。

自分らしく学べる環境との出会い

周囲に自分のことを伝えるには、理解してもらうには、どうすればいいのか。

悩みを抱えたまま中学に入学。

今までの症状に加えて、両手と両腕のふるえや電気が走るようなしびれ、軽度のドライアイとドライマウス、ストレスからの過換気症候群が加わりました。

運良く2年間は理解のある先生が担任になりましたが、年間50日近く休むのは相変わらずでした。

拘束時間が長く、クラブや部活をできるような体力はありませんでした。

とにかく体が重くて重くて仕方がなく、「ここを出てどこか遠くに行きたい」と考えるようになりました。

体が重いのは周囲の環境と合わないからだと考えたのです。

高校は片道1時間ちょっとの高校へ進学。

ところが、高校2年で担任になった先生が「ちょうど聞き取れない声」を持つ先生でした。

私の難聴は病気のせいで変則型の難聴でした。

通常の難聴はすべての音域が生活音を下回るのですが、私は生活音を上回る部分と下回る部分が混在していました。

例えば高倉健さんや渡哲也さんのような声が、ちょうど聞き取れない声にあたります。(例えが古くて申し訳ありません)

ちょうど聞き取れない声の先生はさらに、「1月(ひとつき)に3日以上休む人は仮病」と断言。早退すら許さず、私の心は完全に折れました。

学校には行かないと泣き叫び、大暴れをして、過換気症候群で救急搬送されるというのを繰り返して、高校と教育委員会と話し合って、休学後転校することに。

転校先は単位制高校。

現在は増えていますが、当時はまだ珍しく私が通学できる範囲には3校しかありませんでした。

私が通学していた高校は、自分でできる科目は自宅学習でレポート(問題集)を提出。教師に教わりたい科目は授業形式で受ける。この2パターンを選択できました。

苦手科目だけ授業形式で学ぶため通学するも、週2日の2時間だけ。

あとは、自宅学習だったので、体の調子が良く過換気症候群の発作も起こりません。

通学が苦痛になることもありませんでした。

理解してもらえなくても、あきらめないで欲しい

不登校になった時にカウンセリングや精神科に通いましたが、膠原病や線維筋痛症を見抜かれることはなく、「父子関係の問題」を指摘されました。

確かに父は、戦前生まれということもあり、不登校気味の私にも「病気になりたがっているようにしか思えない」ということもありました。

さらに、父はちょうど聞き取れない声だったので、コミュニケーションが難しく、問題のある父子だったのでしょう。

父子問題があるからといって、毎日のように体がだるい、めまい、吐き気、手や腕の痛みが起きるのはおかしいです。

その点に気がついてくれる人に出会えなかったのが残念です。

単位制高校時代に源氏物語に興味を持った私は、家から自転車で通える文学部のある短大に進学し、難聴の手術を受けて四大へ編入学しました。

短大、四大での生活は一般的なキャンパスライフとは程遠いものでしたが、学ぶことが多く人生で一番充実した時間でした。

好きな事を学び、納得いくまで探求した結果、卒業論文で優秀論文に選ばれました。

短大、四大で論文を書くために費やした時間が、働けなくなった現在、こうしてブログやライトノベルの執筆に役立っています。

現時点で、学校に行けない状況で悩んでいる人は無理して行くことはないと思います。

自分を理解してくれる人と出会うのは難しいですが、学ぶ環境はたくさんあります。

それよりも、好きなことや探求したい事を見つけてみませんか?

きっと自分の世界が広がりますよ。

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